私は三つのテーマを持っています。一つは最後の晩餐、二つ目はレダと白鳥、三つ目がアンギアーリの戦いです。
現在はこの三つ目のテーマ、アンギアーリの戦いを描いている最中ですが、完成には相当な時間がかかると感じています。アンギアーリの戦いの場合、構図や細部の描写に関する基本的な資料が圧倒的に不足しているためです。
そもそもレオナルドがこの絵を破棄した段階では戦闘場面の中央部分しか描いておらず、左右の部分に関しては大まかな構図が決まっているだけで細部の描写は手つかずのままでした。レオナルド自身、細部をどのように描くのかを決定してはいなかったのです。
また、レオナルドは伝統的な様式や構図なども全く無視して独自の作品を作り上げることが多いため、完成作がどのようのものになるのかの予測はかなり難しいものになります。
上の画像はその実例の一つで、ニッコロ・ピッチニーノのレオナルドの素描をもとにして復元図を描いてみたものです。
復元に際して参考にしたのはルーベンスの模写とドーリア家の板絵なのですが、その赤い帽子の描写が独特で不思議な形をしています。この二作品以外の模写でもこの部分はよく似た描写であるためレオナルドが描いたアンギアーリの戦いでもこのような描写であった可能性は高いと思われます。
しかし、このニッコロ・ピッチニーノの肖像画や実在の人物をモデルにしたとみられる彫刻も残されているのですが、その赤い帽子の形はかなり違う形をしていることがわかります。また、ニッコロ・ピチニーノの容姿に関しても相当違い、同一人物とは思えない描写となっています。
明らかにレオナルドが彫刻や肖像画の情報を無視していると感じます。
このように帽子一つ復元するにもかなり難しい判断を迫られるのがアンギアーリの戦いの復元なのです。

上図 レオナルドによるアンギアーリの戦いのためのデッサン


ニッコロ・ピッチニーノの彫刻と肖像画。
ニッコロ・ピッチニーノは当時から相当な有名人だったようで、多数の肖像画や横顔が刻まれた貨幣なども残されています。
それらは概ねよく似た特徴を持っており肖像としての信憑性は高いと思われます。
レオナルドの素描
左図はアンギアーリの戦いの為の素描です。
レオナルドの最も素晴らしい点はこういった人間の表情を自由に描き分けられる点にあります。
実際にモデルにポーズや表情を作らせているわけではなく、レオナルドが望む通りの表情を自在に作り出していると感じます。
アンギアーリの戦いではそういった怒りや恐怖、狂気や残忍さといった感情で画面が満たされていたのでしょう。

2024/3/15 アンギアーリの戦い復元図 Kiyoshi Bando
左の図はレオナルドが描いたアンギアーリのための素描で右側の戦闘場面を描いたものになります。
かなり小さな素描ですが、最後の晩餐でもレオナルドはこういった簡略な素描から実際の制作を行うことができるため、これが最終的な構想図である可能性もあります。
この素描の画面左端にはアーチ状の橋が描かれており、一群の馬はその橋に突進している様子を描いたものになります。
この素描はアンギアーリの戦いの中央戦闘シーンを描いた素描になります。
上の画像同様かなり最終的な構想図であり、この素描をもとにレオナルドは大きな下描きを描いた可能性もあります。
実際にルーベンスの描いた模写と同じ姿勢の人物や馬どうしの戦闘シーンもこの中に描かれており、小さく簡略ながらも多くの情報が得られる素描となっています。
また、画面右側には遠くにアーチ状の橋がはっきりと描かれており、橋の形状や位置関係なども特定できます。
この素描もアンギアーリの戦いのための素描と考えられますが、上の画像に比べると完成度が低く、まだ構想段階の素描のように思われます。
しかし、下側の描写には右側に中央戦闘シーンが描かれているようにも見えます。
中央戦闘シーンの左側には回り込むように川が描かれその左側にはさらに別の戦闘シーンが描かれています。
描写自体はラフですがアンギアーリの戦いの全体像を探る手がかりになる貴重な素描です。
この素描も上の素描とほぼ同時期に描かれたような筆致を見せています。
場面的には中央戦闘シーンのようにも見えますが細部の形状がまだ確定できておらず、極めて初期の構想図のように感じます。
また、素描の下側には歩兵同士の戦闘シーンが描かれており、レオナルドは馬を中心とする戦闘シーンの周辺にはこうした歩兵同士の戦闘シーンを配置する構想であったことが伺えます。
下の画像はレオナルド研究の第一人者と言われていたカルロ・ペドレッティ氏による全体構想図の再現図です。
簡略的な描写ですがレオナルドが描こうとしていたアンギアーリの戦いの全体像をかなり正確に再現できていると感じます。
特に中央戦闘シーンと右側の戦闘シーンとの関係性が絶妙でこれ以上手を加える必要がないほど完成されています。ただ左側の戦闘シーンに関してはさすがに資料不足のため不完全な描写となっています。
アンギアーリの戦いを復元するためにはこの左側戦闘シーンをどのように描くのかが重要なポイントとなります。

アンギアーリの戦いには中央戦闘シーンを描いた有名な二枚の模写が存在しています。一つはルーベンスの描いたデッサン画でもう一つがドーリア家の板絵と呼ばれる油彩画です。
この二つの模写にはそれぞれ特徴がありアンギアーリの戦いを復元する上で欠かすことのできない重要な資料となります。特にドーリア家の板絵では細部の描写がかなり正確に描写されているだけでなく色彩までもが特定されているので大変興味深い作品と言えます。


全体的なバランスといった点ではドーリア家の板絵の方が完成度が高く上品にまとまっています。この中央戦闘シーンにはこれら作品以外にも実に多数の複製画が残されているのですがその中でもこのドーリア家の板絵が群を抜いて洗練された描写となっています。
反対にルーベンスの模写では全体的なバランスがぎこちなく細部の描写に関しても正確性といった点ではやや劣る感じは否めません。しかし、細部の描きこみが素晴らしく、情報量の多さに関して十分な量があります。

上の画像は二つの模写を重ねて比較したものになります。
全体的に見て馬の描写に関しては概ね一致する部分が多くレオナルドが描いていたアンギアーリの中央戦闘場面もこのような描写であったことは間違いないでしょう。
一方人物の描写に関しては画像の重なりがかなりずれていることがわかります。ルーベンスの描く人物の方がやや大きく描かれています。全体の比率から見てドーリア家の板絵の戦士の描写の方が正確に描かれているように見えます。
レオナルドはこういった複雑に絡み合うような描写を好み人物の動きに関しても激しく体をひねったポーズを多用します。また、それらの描写も難しい短縮法を使って描かれることが多いため他の画家がレオナルドの作品を模写するときに正確に写せないことがしばしば起こります。
さらに人物の表情に関してもレオナルド特有の品格を伴った繊細な描写についていける画家がほとんどいないのが実情です。こういった事例は最後の晩餐の模写でも頻繁に見受けられる現象でいかにレオナルドの作品を模写することが難しいかを証明しています。
このアンギアーリの戦いに関してもそういった特徴が顕著に表れており無数の複製画にはレオナルドの難しい描写についていけていない部分が目立ちます。
アンギアーリの戦いを復元する際にはそういった戦士の表情をどこまで再現できるかが重要な部分となります。